『私』の人生

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八月八日に、飼っていたセキセイインコ、「ゆきち」が亡くなった。
特別後悔の残る別れだったわけではない。
最期まで愛し、愛されていたと思える別れだった。
それでも、セキセイインコの寿命にしては短すぎる。それは、私の責任だろう。それだけは後悔している。

 

私は一人で暮らしている。
皆さんの目にどう映っているのかはわからないが、私の財産はとっっっっっっても少ない。規約上具体的な金額を述べることはできないが、私には金銭的余裕などない。
加えて職業柄、安定した月給というわけでもない。そして、いつyoutubeにアカウントを消されるのかもわからない。(戯言の雑音が規約違反と判断されている以上、いつ何が起こるかわからない)

正直な話、クリエイターとして、アーティストとして作品を作るだけで生活する額なんて稼げていない。『登録者数10万人 月収』などと調べて出てくる金額を見ても、私には乾いた笑いしかでない。具体的な話は避ける。
金は重要だ。贅沢をするためではない。心のゆとりのためには、金が必要だ。
心のゆとりがなければ、作品を作ることはできない。機材も買えない。
身心の健康のためにも、金は必要だ。

 

アーティストとして金を得るために必要なことは、おそらく覚悟だ。
私はずっと逃げてきた。逃避から始まった創作というものに、不必要な部分は目を逸らしてきた。
今の私は、覚悟がある。あると、思う。まだ。

 

去年から私は変わった。
明確に、『やりたくないことをやろう』と思うようになった。
それは金のためでもあり、自分のためでもあり、「なぜ作品を作るのか」にも直結する覚悟だった。(「なぜ作品を作るのか」については前回の記事を参照してください。)
初挑戦のオフイベントや、ラジオ。大変光栄な機会をいただけて、8月を乗り切って。そして9月以降のスケジュールを立てていた。いままでよりも早く歩こう、もっと覚悟を決めよう。己の精神の弱さを理由にせずに、先へ進もう。
自分のために。自分の人生のために。

そう思っていた矢先にゆきちが死んだ。

 

数ヶ月前から、具合は悪かった。医者にも「これ以上はどうしようもない」と言われていた。覚悟していた。
覚悟していたのだ。「なんでもやろう」と思っていた。「ゆきちのためになんでもやろう、金だっていくらでも出そう。外出もなるべく控えよう」と思っていた。誓った通りに手を尽くした。だから、後悔なんてなかった。
命が死んだあとの魂の行方や、難しい話は割愛する。私の中で答えがあればそれで良い。
ゆきちは最期まで私を愛してくれていた。それだけで十分だった。


死んだあとのゆきちはきっと自由にどこへでも飛び回っているし、でも本当に私のことが大好きだったから、きっと肩に乗りに帰ってくるだろう。私の左手の中で寝るのが好きだったから、きっと眠りに帰ってくるだろう。私には見えなくても。それは、真実だろうとそうでなかろうと構わない。おまじないのように、自分に言い聞かせて、自分が信じることができればそれでいい。

 

ゆきちが亡くなって一週間経って、『独り』の生活に慣れ始めた。
それが悲しくて寂しいけど、それでも「これが生きていくということなんだろう」と考えている。
だけどゆきちが亡くなって、私は前述した『己のために頑張るという覚悟』が、揺らいでいることに気付いた。

 

今はまだ傷心しているから、疲れているだけなんだろうと思う。いずれ回復すれば、また頑張れると思う。
幸いにも周囲の方たちは優しく声をかけてくれて、「焦らなくていい」と言ってくださっている。本当に、感謝してもしきれない。

 

「なぜ頑張れる気がしないのだろう」と考えた。
ゆきちの居たケージを片付けた。外に出て、帰ってきた。いつもは玄関のドアを開けると鳴き声がした。玄関の扉の開く音を真似するのだ。その声がしない。
廊下を通って扉を開けた。「おかえり」という意味のこもった鳴き声はもうしない。私は「ただいま」と発した。何の音も返ってこないとわかっていて発した。
朝起きたら骨壷に「ゆきち、おはよう」と話しかける。寝るときは「ゆきち、おやすみ」と話しかける。ゆきちが生きていた頃と同じ習慣を続けている。
もちろん、何の反応も返ってこないことが、静寂が、悲しいと思う。寂しいと思う。
そしてようやく気付いたのだ。

 

随分前に、私は「一人で生き抜こう」という覚悟を決めていた。
本当の自立とは、己の足で立つことだと。どんな不幸も幸福も、己の体で受け止めて、その足で立って、その足で歩いて、己の人生は己の手でゴールテープを切るのだ。

いろんなことがあった。私が上記の覚悟をしたのは、『人間に対する失望、不信、その自覚』が大きな割合を占めていた。
だから自分は一人で生きるべき人間だと思った。
周囲の人に助けられて、頼ったりもするし、与えてもらっている。もちろんそれに感謝し、与えられた恩は返したい。それは人間として当然のことだと思うから。
それでも一人じゃ何もできない人間ではない。己の人生のために頑張ることができると思っていた。

 

この覚悟ができたのは、私が『ゆきちを育てる私』という存在だったからなのだと、最近気がついた。

私はゆきちを自分の子供のように感じていたし、おそらくゆきちも私を母親のように感じていただろう。
私が倒れればゆきちの世話をする人間はいない。だから倒れるわけにはいかない。そのためにはご飯を食べて、朝起きて、夜寝て、そういう基本的な、健康のための暮らしを続けなければならない。
金もそうだ。ゆきちのご飯を買うお金もなければ、ゆきちは死んでしまう。だから私は、覚悟ができたのだ。

 

『ゆきちのために頑張る私』には、価値があった。
だけどゆきちがいなくなった、たった独りの『私』に、私は今価値を見出だせないのだろう。
だから、「己のために頑張る」覚悟が揺らいでいるのだ。

 

誰がどのように思おうとも。
私がどんなに素敵な作品を作ろうとも。
それらを私が愛していようとも。
それでも、『私』というありのままの人間を、私はまだ愛することができていない。
それを自覚した。

 

昔ほど安直に自死を考えることはなくなったが
ここ数日は、「もし全てを諦めて放り出したら」という妄想をすることが多かった。
きっと私はそれを選ばない。それはもうわかりきっているから安心して欲しい。
それでも、なんだかそれもいいやと思えてしまった。
生きがいもない、生きる意味もない人生を送るのも、それもまた人生なのかもしれない
または、自分が必死にしがみついていた「作品を作る」という生きる意味を、諦められるタイミングなのかもしれない。
そう思っている。
でも、まあ100%そうしないだろう。それは意地だったり、今まで積み重ねてきた時間を無駄にしたくない、というのもあるけど
やっぱり悔しい。私は、貫き通して幸せになりたいのだ。
「生きるのに向いていない」という気持ちを背負って、そのまま足掻き続けてこの歳まで生きて
この人生を投げ出すことは、この世界で同じような苦痛を持ったまま足掻いている人間の人生を否定することになってしまう。
それが何よりも悔しい。
辛いことばかりで、悪に利用されて、優しさが仇になる世界で、それでも私は、己のために生きて、己のために他者に優しくすることを、己のために善で在ることをやめたくない。
最期には笑って死にたい。全部やりきった、お前らが笑って馬鹿にした愚直さを貫き通してやったぞ、それでも幸せに死ねるんだと、証明したい。
まだ心の奥にその火が揺れている。

 

ゆきちが教えてくれたのは
『私は本当の意味で一人だったわけじゃない』ということだ。

ゆきちと生きる人生は、ゆきちに愛を与え、そして愛を与えてくれた人生は

今まで生きた中で一番有意義だった。

一番、『私を生きている』時間だった。

 

言葉も通じない私の一番の理解者だった。
私はあまりにも幸せだった。
出会えて良かった。だからこそ、これからも私は諦めずに生きるだろう。
覚悟をまた決めるだろう。
私は『ゆきちを育てる私』ではなく『私』になってしまったけど
今、私の人生には、ゆきちが乗っているのだ。

 

 

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